2026.05.06

Q. 先日、デイサービスで働いている介護職員からこのような質問を受けました。「介護の仕事に就いたころからずっと思っていた疑問があるんですが、介護の仕事を『業務』と考えればいいのか、またボランティアや趣味として考え直した方がいいのか、迷っている…」とのことでした。よく聞いてみると、彼の所属がデイサービスだからなのかもしれませんが、「施設長やデイの責任者は、『—デイの稼働率をどうあげるのか、もっと営業をしてお客を増やせ…』的な発言が、どうしても理解できない…」ということでした。相談員として、彼の質問にどう答えればいいのか…。 

A. この半年間だけでも「—これが介護の仕事なんだろうか…」という介護職員からの相談があとを絶たない状況がありました。
今回の質問には、そもそも介護保険制度が孕む矛盾だけではなく、福祉や介護を仕事として勤め上げるために必要となる要素も含んでいると思いましたので、私が考えつく範囲のレベルで問題提起したいと思います。

介護保険法の単価改正を受けたいまの収益構造や、次に予想される法制度の改正案をみる限りでも、特養だけを例にとった場合、売り上げが伸びることはなく、日々の稼働率で収益が見込まれるデイサービスに期待の目が注がれることもままあるでしょう。

その結果、管理者としては「—デイの稼働率をどうあげるのか、もっと営業をしてお客を増やせ…』という発想も経営的にはあり得る発言だと考えています。

同じ職場で働く仲間が、管理者であるあなたに尋ねたその意図するところは、すでにお分かりなはずです。

「—営業をかけるのが面倒だ。そんなノルマは達成できない…」という趣旨ではないはずです。「営業をかける」、つまり本意ではないにもかかわらず、高齢者に無理やりサービスを使わせ介護報酬や利用料を請求する、という考えに抵抗があるんだと思っています。福祉や介護は、営業をかけてお客を集めるものではない、と。

介護保険法の考え方は、過去の記事でもお伝えした通りです。

つまり、介護保険制度になった以上、債務不履行責任での訴えを回避するため、ケアプラン別表2であげられている「実施するサービス内容」を約束通り行い、その行為を記録するというプロセスが大切になります。

なので、ケアプランと記録との整合性が、「記録を書く」という視点から必要になるわけです。極端にいえば、笑顔や想い、熱意といった感情は、適切な業務という点で二の次三の次でも構わないというドライな発想です。

ですが、実際の介護労働というのは人格が労働に大きく影響する仕事でもありますから、介護に対する想いが仕事への動機やモチベーションの確保に必要不可欠であるのも確かです。

電化製品等のように、「いいモノであれば、売り上げが見込め、給与や賞与も期待できる」というビジネスモデルではなく、介護や福祉はニーズの掘り起こしという視点はあるものの、「サービスの提供が必要であると思われる人に対し、十分な人的サービスを提供する」というモデルを採っています。介護保険の取り扱い事業所においては、単価も国が定め、人員や設備、運営に関しても公的な縛りがあるなかでの業態なわけですから、純然たる民間企業モデルでいう「最小の投資で最大の利益」を追求するスタンスとは異なるわけです。だからといって、以前あった措置制度下のように、準公務員的な業務とも違うわけですから、質問にあったような介護職員からの疑問も、遅かれ早かれ突きつけられ、法人や施設としても働き方という点で方針を明確にし、誰からの問いかけに対しても整然と答えることができるようにしておく必要があります。

そのまえに、そもそも論として「なぜ、重度の認知症高齢者に明日も生きていて良いと言えるのか?」、「意識を喪失している高齢者や重度の障がい者に、明日も生き続けて良い理由とは?」について考え、個々の職員が自らの答えを胸にしまっておく必要があると思います。介護保険法の第一条にも、「(要介護者の)尊厳の保持」という文言が、法改正をしてでも追加された表現であることからしても、「尊厳の保持」とは何かについて考えておかなくてはなりません。この「人間の尊厳」については、社会科学系の学問領域にある者だけではなく、医療や福祉、介護の実践現場で働く者にとっては、看取りの実施や延命治療の是非が問われるいま、重要なキーワードとしての位置づけをもっていると思われます。

尊厳という言葉から連想するものとして、「尊厳死」をイメージするかもしれません。尊厳死とは、自らの尊厳が残されているうちに死にたいという意味であり、医療倫理分野の本から抜粋するなら、「自分の症状が悪化して、体力と気力が低下して自己管理ができなくなり、他の人々に依存しなければ生きていけず、ケアされ世話されることで自己の尊厳とプライドが傷つけられる。それを非常に苦にして、自分の尊厳がこれ以上傷つけられる前に患者が死を選ぶ」という考え方のようです。医療の分野で盛んに論議され、また病院等では尊厳死事件をめぐって過去に何度も裁判にまでなり、①患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること、②患者は死が避けられず、その死期が迫っていること。③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法をつくし、他に代替手段がないこと。④生命の短縮を承諾する患者の意思表示があること、の4つを安楽死の要件にするなどの法的なガイドラインも作られています。

しかし、介護現場ではどうでしょうか?

認知症からくる問題行動で、尊厳を著しく害されている(と思われる)場合でありながらも、なぜ「明日も生き続けていい、その理由」を巡っては、論議の途中で介護保険の導入が決定してしまい、介護施設の中での主なテーマが「運営から経営へ」と大きく舵を取らざるを得ない環境におかれてしまいました。

一方、高齢者自身の考えはどうなんでしょうか? 日本尊厳死協会が会員に対して行ったアンケート調査でも認知症に対する尊厳死適用を希望する結果が約9割近くにまでのぼり、当協会は過去にも認知症となった高齢者の「末期」判断をめぐり新たな定義を示したほどです。

世間では、認知症と診断された高齢者が、「癌の方が、まだマシだった…」という声にならないつぶやきを発し、多くの高齢者がぴんぴん生きてコロリと死ぬ(頭文字をとってPPK)ことを理想とするなかにあって、その想いの正反対にある特養で働く職員にとって「なぜ、生き続けても良いのか?」という問いを考え続けなければなりません。

「だって、仕事だから。業務だから。」という理由だけでは答えにはならないと思います。

その答えがあなたの中で分かった時、利用者である高齢者本人が望むと望まざるとにかかわらず、1500cc以上の水を一日に飲まされ、食事が摂れなければ点滴を投与される、その理由が分かると思います。

ひいては、重度な認知症でわが子の顔さえ分からなくなった利用者に、「もっと長生きするように、頑張ろう」という声掛けをする、その理由が…。